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哲学概论的汉译爱知学院大学
第2文学文化分科会
宮沢賢治の西域童話(周 異夫)............................................192
近代日本における修養の言説空間...........................................194
——―読者論を目指して(王 成)
试论志贺直哉文学的自然观(陈 多友)......................................197
不同的国度 相似的作品...................................................199
————浅析《野草》与《梦十夜》(于 长敏 陈 云哲)
『或る女』におけるフェミニズム思想をめぐって(李 先瑞)...................201
有島武郎「カインの末裔」試論(冯 海鹰)...................................202
从《亚东时报》看晚清时期中日共同言论平台的构成(陈 爱阳).................204
论三木清的协同主义哲学(刁 榴)...........................................206
日本明治哲学思想の受容...................................................208
――『哲学概論』の中国語訳をめぐって(王 琢)
翻译主体的身份与语言问题.................................................211
――论1930年代初期的翻译论争(董 炳月)
西周における「性」(孫 彬)...............................................213
日本俳句的起源、形式与翻译(田 建国)....................................215
日本における異文化コミュニケーション研究の歴史と現状(盧 濤)............218
日本内容产业的现状分析及其国家政策(呉 咏梅)............................220
異文化認知における「日本概况」の役割(周 潔).............................222
「政冷経熱」の実態と危険性................................................224
――1914-1945年の中日経済貿易関係について(黄 栄光)
从“鬼”的寓像意义浅释日本文化的混合性(杜 勤)..........................226
(目次へ)
宮沢賢治の西域童話
吉林大学外国語学院 周 異夫
一、はじめに
宮沢賢治の作品には、大陸に関する内容がその詩、短歌、童話など所々に見られるが、同一作品に集中的に現れたものはあまり多くない。
その多くないものの中で、大陸的要素を集中的に見せたのはいわゆる西域童話である。
西域童話の中で、はっきりとした西域のイメージを見せたものもあるし、内容あるいは思想の面で西域と繋がっていると考えられるものもある。
二、西域童話に関する論考
1、宮沢賢治の西域理解と西域童話の範囲
西域とは、漢の時代から玉門関、陽関より西側の広大なる地域を指すが、厳密的な範囲が定められていない。
『漢書・西域伝』では、<南北有山、中央有河、東西六千余里、南北千余里>と記しているが、広く言えば、狭義的西域を通して到達可能な西側諸国の土地が西域と考えられた。
狭義的な西域は、大体葱嶺より東側の漢、唐の政府機関の管轄下に置かれた現在の新疆と中央アジアの一部の地域を指す場合が多い。
賢治の詩と童話の中で、西域的要素を持っているものが西域童話と呼ばれているが、内容判別と範囲認定が難しいゆえ、厳密な西域童話の定義は定められていない。
西域の地名や用語が特に詩の中で多く使われたが、童話の中では<西域>という語の使用例が少ない。
賢治自身はこのジャンルの童話を<西域童話>と呼ばず、<西域異聞>と呼んでいた。
そこから、<西域童話>という名称が生まれたものと考えられる。
賢治の考えていた<西域>は、狭義的西域のようであるが、ここで言っている<西域童話>の範囲は<西域異聞>に止まらず、賢治の考えていた<西域>よりも範囲が広い。
それは、広義的西域の要素を持っている童話であり、作品は二十編以上も数えられる。
2、西域異聞三部作の舞台背景
<西域異聞>の三部作は「マグノリアの木」「インドらの網」「雁の童子」である。
この三篇の作品はどのような順序で書かれているかはわからないが、みな西域出土壁画に描かれた少年をモデルにしていることが明らかである。
特に、「インドらの網」の中の<于闐大寺の廃趾から発掘された壁画の中の><三人の天の子供>が「雁の童子」の中の<沙車大寺のあとから><掘り出された>壁画の中の<三人の天の童子>と深く結びついており、興味深いものである。
3、宮沢賢治が西域に惹かれた理由に対する考察
賢治は西域に興味を持ち、その要素を作品の中に取り入れた理由として、西域が通商上、あるいは軍略上非常に重要な地域だからではなく、賢治の仏教への信仰と憧憬によるものだと考えられる。
賢治が十八歳のとき大乗仏教の最も重要な経典の一つである『妙法蓮華経』に興味を持つようになり、『漢和対照妙法蓮華経』を読んで異常な感動を覚えたという。
盛岡高等農林学校地質学部研究科在学中も、宗教色濃厚な詩や短編を書いて配布したりした。
賢治は、法華経と日蓮主義を熱狂的に信奉する宗教団体国柱会に入会した後、突然家出して上京し国柱会本部に駆けつけたという過激な行動までとった。
東京滞在中、法華経を文学に生かす道を模索し始めるようになったのである。
このような賢治が仏教あるいは法華経発祥、伝来、または隆盛だった地方に興味を持つようになったのも当然であり、それは、仏教的思想にあふれた<西域童話>からはっきりと読み取ることができる。
もう一つ、漢唐時代に天山南路に栄えていた重要な都市庫車が、『妙法蓮華経』の漢訳本の著者鳩摩羅什の生地だったことも忘れてはならない。
鳩摩羅什が法華経をはじめ数多くの大乗仏典を翻訳し、衆生救済に一生を捧げた。
それについて法華経を篤信する賢治は知らないわけはない。
鳩摩羅什の足跡が残っている土地は賢治にとって極めて魅力的であり、それは度々賢治の詩や童話に現れるようになったのも何の不思議もないであろう。
三、西域遺跡の発掘と<西域異聞>三部作
1、西域探検の風潮と于闐、米蘭の発掘
アヘン戦争後、列強が自由に中国内陸に入ることができるようになり、特に十九世紀末から二十世紀初にかけて、イギリス、ドイツ、フランス、スウェーデン、ロシア、日本などの国が競って西域探検に乗り出した。
その間、敦煌、古代都市于闐などの仏教文化遺跡が発掘された。
1907年、米蘭の仏教寺院の遺跡から<翼を持った天子像>が発見された。
2、米蘭の天子像壁画と<西域異聞>三部作
賢治は壁画出土のことを詩の中にも書いた。
また、「雁の童子」の中の<それはフランスの探検家……>の書込みも、童子像壁画の発見が西洋探検家によるものだと賢治が認識していることを示唆している。
米蘭の壁画に描かれた天子像は「雁の童子」の他に、「マグノリアの木」と「インドラの網」にも登場し、<西域異聞>三部作の共通した性格を示している。
近代日本における修養の言説空間
――読者論を目指して
首都師範大学 王 成
一、問題提起
明治期に出版された修養書はまさに汗牛充棟である。
経典の翻刻や注釈もあれば、説教風の講話録もある。
修養論を体系的に構築しようとした著作もあれば、志士聖賢の教訓や「金言玉句」を集めた格言集や座右銘集もある。
物語風の偉人伝もあれば、作者個人の実験談もある。
大量に刊行された「修養」の書籍が多くの読者を獲得し、宗教運動や社会教育のうねりもそれに加わり、出版メディアのさらなる発達や義務教育の普及もそれらを後押しして、「修養」が青年層を中心として民衆の間に広まったのである。
そこに、明治期の読者がどのように「決まり文句」的な修養書を受容したかという問題が浮上する。
本論では修養書における大衆啓蒙をめぐって、修養書の形態、出版ジャーナリズム、読書空間などの側面から、近代日本の精神文化の一環を成していた「修養としての読書」を検討してみたい。
二、修養書の流行
明治三十六年以降、藤村操の自殺事件をきっかけに雑誌の「修養」言説が一気に増えた。
「修養」に関する文章は、一時期雑誌に欠かせないものとなった。
従来の修養雑誌も相次いで「修養欄」を設けて、読者の趣向に対応する。
「修養」は出版メディアによって更なるうねりを創りだしていた。
日露戦争後、出版業の発展とともに、修養書の出版も読者の需要に応えて、著しく増えてきた。
読者は出版業の発達によって活字メディアを通じて、即ち読書の形で「修養」に関する知識を提供されたのである。
この時期の「修養のために読むべき書」として書名に「修養」を冠した書物の出版実態は、『国会図書館蔵書目録』によって垣間見ることが出来る。
それを見れば明治三十年から明治四十五年六月まで「修養」というキーワードで検索できる本だけでも、三百二十点あり(「近代デジタルライブラリー」)、明治三十九年から大正前期にかけての出版点数の急激な増加がわかる。
明治期における代表的な修養書には、『論語』のような経典の再興とともに、当代の有識者が書いた『修養論』や『修養』や『努力論』などがある。
『修養論』は加藤咄堂の修養論の集大成であり、明治、大正期のベストセラーとして名高い。
新渡戸稲造の『修養』も、この時代に作り出されたベスト・セラーである。
幸田露伴の『努力論』は、明治四十五年七月に東亜堂書房から初版を出版して、大正元年十月まで一年足らずで十八版を重ねた。
明治末期まで、『論語』や『菜根譚』などの「経典」を修養書として、古聖先賢の格言を無条件に熟読する読書傾向が存在した。
修養論者は「修養と読書」において、心身をこめて経典に近づけるという読み方を提唱した。
明治期に、社会の「修養」機運が高まっている中、メディアによる「修養」の伝播が修養ブームに拍車をかけ、雑誌や図書の出版業も、日本の近代化とともに大きな発展を遂げた。
そうした時代の中で、修養書は、読者大衆に「修養」を伝播するメディアとして重要な役割を果たした。
三、「修養」としての読書
明治期の読書風景を描いた小説に夏目漱石の『門』がある。
人生の危機に直面して、如何に「安心立命」の境地に入れるか。
それは小説の主人公・宗助を悩ます課題である。
漱石は人生の危機の局面から脱出して、不安を解消する道として、作品の中に修養書を読むことと参禅を設定した。
宗助が『成功』や『論語』を読む場面、同僚が出勤の車中で『菜根譚』を読む場面、禅僧が『禅関策進』を読む場面などは、この時代(明治四十二年前後)に流行した「修養」としての読書のリアルな表現として、夏目漱石の修養書の果たす役割に対する洞察を読み取ることができる。
新渡戸稲造は近代的な学問方法を持って出発した学者だが、その著書である『修養』は、「通俗平易」な語り口によって「修養」の徳目を説き、近代の日本人に多大な影響を与えた。
自身の私的な読書や修養体験にまつわる「随感随想」
(1)を材料とし、「対手が少年か老年かも忘れ、或は如何なる位地に今日自分がゐるかも忘れ、又これが恥辱か名誉かさへも忘れ、興に乗じて物語った」
(2)と告白したその率直さが読者に親近感を抱かせ、エリートから一般の民衆まで幅広く支持された。
『修養』は大衆向けの修養雑誌『実業之日本』に連載ののち、明治四十四年九月に実業之日本社より出版された、近代日本最大の修養書である。
第一高等学校の校長であり帝国大学教授でもあるという教育界や言論界での人気と、『実業之日本』の影響力に支えられて、『修養』は明治、大正、昭和を通しての一大ベストセラーとなったのである。
明治期に流通した修養書は大衆読者を主なる対象としていたために、どのようにして彼らを説得するかという、その啓蒙性の質にはさまざまな工夫が凝らされることになった。
たとえば修養書における古典と新作との関係を見ると、『論語』や『菜根譚』のような経典が通俗化した形ではあれ原典のままで読まれるいっぽう、それらを自説の補強のために援用する『通俗修養論』や『修養』、『修養論』のような「新作」修養書が他方に存在する。
そこでは、たとえば『論語』の成語がふんだんに引用されることで読者に馴染みやすさをもたらし、それを利用しながら新作が自説をより強固なものとする。
この関係を、一次的書物と二次的書物の関係と呼べるとすれば、そこには、両者が相互に補足し合って、成語の流通と修養理念の浸透とを拡大させていく一種の「スパイラル」構造のようなものを見出すことができるのではないか。
「通俗性」が強調された『通俗修養論』や『修養』のようなテクストでは、その語りかけの「文法」、すなわちどのような語り口によって主張を読者に浸透させようとしたかが重要である。
『通俗修養論』は、「説教」に精通した村上専精が得意の俗語調を駆使して言文一致で書いたテクストであり、いっぽう、新渡戸稲造の『修養』は、「身の上相談」ふうの語り口で「通俗平易」の啓蒙性を実現した。
そしてそれらの修養書においては、読者への語りかけの手段として、「比喩」や「設疑」や「反復」などの修辞法が採用された。
たとえば新渡戸の『修養』を例に取ると、「逆境にある時の心得」という章ではまず「逆境とは何ぞ」から説きはじめ、例え話や逸話や格言名言などをネタとして、「漸次法」や「起承転結」などの修辞を活用して、論旨を読者へ浸透させる。
「命令」、「遠回し」、「脅し」、「勧誘」などを織り交ぜた文章は、修養書の通俗文体の一大特徴といえよう。
また、加藤咄堂の『修養論』のように、漢文脈というかたちで読者レベルを指定しつつ(といってもこの時代のことであり、それほど少数に限定されたはずはない)、故事成語や金言玉句、ことわざ、家訓など、大衆読者の耳に馴染んだ言説をふんだんに生かした文体からは、大衆性への深い洞察がうかがえる。
総じて明治期の修養書が、さまざまな方法で、みずからの主張の浸透に工夫を凝らしていたことが、これらの例からもおわかりいただけると思う。
修養論者や修養書が「古聖先賢の語を引き又其の行実を挙げること多し。
(中略)古聖の一言、先賢の一行、皆之我が修養の箴たり、練心の料なり」(3)と指摘されたことからもわかるように、修養と定型表現との関係はきわめて密接である。
それを、近代日本文化や日本人と定型表現との関係の密接さ、と言い換えることもできるかもしれない。
また、修養書の中によく引用された『論語』や『菜根譚』のような古典は一種の故事成語集としても機能し、だとしたら修養書そのものも一種の故事成語集だと言うこともできるかもしれない。
いずれにしても、このようにして修養書の「決まり文句」中心的な構成や「故事成語」重視の表現は、近代日本人の精神構造に決定的な深さで食い込んでいったのである。
(1)新渡戸稲造『修養』(実業之日本社、一九一一年八月、八頁)。
(2)同注(1)、四頁。
(3)加藤咄堂『修養論』(東亜堂、一九〇九年四月。
引用は忠誠堂、一九二六年二月、八頁)。
试论志贺直哉文学的自然观
广东外语外贸大学陈多友
对立的自然观和贯彻自我的原理是青壮年时期志贺直哉的人生信条。
它体现了深受西洋精神风土影响的志贺所饱含的人生斗志和创作激情。
这时期的志贺文学因之也形成了“战斗文学”的特点。
然而,以大正2年滞留城崎为契机,他的人生信条发生了急剧的变化,调和的自然观凸现出来。
然而扎根于自然的原始生命力并没有因此消失。
事实上它反而从内里支撑起老年时期作家的调和的自然观。
职此之故,之于志贺文学,调和的自然观始终没有被虚无、死亡等消极元素所吸收。
青壮年时代生成并鼓动着志贺对立自然观和贯彻自我之原理的强大生命力在其后的数十年里,一直在静静地守护着老年时期的志贺文学。
大正6年,在充满能量、激昂亢奋的贯彻自我这一人生原理急剧沦落之后,志贺的生存原理暂时出现了“真空状态”。
经过严肃的思考和激烈的心理斗争,调和的自然观终于作为新的人生原理开始发挥起机能作用。
志贺绝大多数优秀作品都是在此之后问世的。
这些事实使人深切地感受到志贺生存信念的坚忍不拔及其文学非同寻常的生命力。
如此强劲的生命律动恰好表明:
调和的自然观早已横亘于作家生命的根底,像大海容纳着来自四方的生命急流或是潺潺小溪。
正因为有了调和的自然观这一坚固的基础,志贺才得以克服那段黑暗的转换期,而且人生原理的直落也没有立即形成空洞。
对立的自然观易于扎根于西洋的精神风土之中。
在对待自然的态度上东洋对西洋形成了二元对立。
尤其是到了近代,确切地说在日本的明治维新以后,究竟怎样处理与自然的对立或调和的问题成了生存和文学回避不开的带有本体论意义的课题。
志贺无疑是解决如此问题的智者和勇者。
他以自己独特的文学为利器信步江湖逢凶化吉,成为绝对不败的胜者。
他取胜的基础就是坚固的调和自然观和旺盛的生命力。
调和的自然观与旺盛的生命力的形成了志贺独到的个人自然观。
正是如此自然观使得他如虎添翼,无须担心悲剧或败北的袭击。
从自然观的角度考察,志贺文学百分之百地属于安定牢靠的生命文学。
它有别于芥川龙之介、川断康成们的悲情式的文学。
始终给人“山重水复疑无路,柳暗花明又一春”的感觉,永远也不会失望或无助。
老年时期的志贺文学仍然固守着以生命力为基石的信条。
按照须藤松雄的分析,能够印证这种观点的是其文学的非感伤性。
洋溢着旺盛生命力的感情、充满激情的行动,两者高度统一合为一体正是作者的人生原型,同时也是其文学造型的原理。
老年期的志贺文学,静穆稳当的调和自然观已经深深扎根于此,所以仍然难以从中发觉感伤的影子。
其次,志贺文学富于“文的弹性”。
它可以形成适度的紧张,却不至于造成心理压力。
叙事表达富有独自的弹性,结果它每每指示起被创作主体充电的生命力。
总之,充满以自然为根源的生命力,把握静稳的调和自然观。
这是老年时期志贺文学的基石。
志贺写于昭和26年、27年以及28年的日记中经常谈到风景“很美丽”,也从侧面表明调和的自然观成了他闪烁生命光芒的灯塔。
而更能体现作家如此热爱自然情愫的当数《暗夜行路》后篇终了部分的大山之行的描写。
行文温婉细腻洋溢着善意,构图雄伟壮丽回旋着美感。
极力表现了主人公与大自然之间的和谐融洽,以及后者所孕育着的厌离秽土超越生死的意义。
可以说整个日本文学都或多或少地能够见到这种倾向:
虽然经常涉及到自然描写,但基本上都是侧重于局部,极少问津总体或宇宙。
即使有所触及,也只是浮光掠影,苍白无力。
然而,《暗夜行路》最后这段相关叙述无疑是个例外。
主人公能够从作为自然观一极的对立自然观的角度认识到自然整体可以使人类灭绝,同时他又认为调和的自然观是唯一绝对的生存原理,它充斥于自然并在自然里扎根。
志贺文学能够这样具体地再现调和的大自然,可见它的确算得上幸福的文学。
超越生死的调和的世界,充满温馨宁静的大自然,这正是志贺文学极力表现的至美主题,也是作家孜孜以求的人生境界。
不同的国度相似的作品
——浅析《野草》与《梦十夜》
吉林大学 于 长敏·陈 云哲
『野草』は魯迅が1924~26年の間に発表された随筆集であり、「夢十夜」は夏目漱石が1908年『朝日新聞』に連載した十篇の短編小説である。
両方を照らして読めばすぐ気が付くが、発想から内容まで似ているところが少なくない。
「夢十夜」の中の四篇が「こんな夢を見た」で始まるが、『野草』の中の七篇が「私は夢を見た」で始まり、そして夢のことを描いている。
「夢十夜」の第三夜において、「私」は「石地蔵のように」重い盲を背負って闇の夜に歩き続け、捨てようとしても捨てられない。
これは生まれながら負わされた運命を指していう。
『野草·過客』の中では、「過客」(魯迅)は前に自分を待っているのは墓だと知っていても歩いていかねばならない。
この場面も非常に似ている。
また、「夢十夜·第七夜」の「私」が海へ飛び込む場面と、『野草·死火』の「私」が氷の谷へ落ちる場面とも相通じるところがあると思う。
場面の描写だけでなく、中味も似ているところを見出すことが出来る。
夏目漱石は「打死をするか敵を降参させるかどっちかにしてみたい」と思うが、魯迅は「死火」で氷の谷で死を待つか、谷を出て自分を燃やすか二者択一だと言っている。
魯迅は漱石の本を読んだこともあるし、翻訳したこともある。
また文章の中で漱石が自分の愛読作家の一人だと書いている。
だから、魯迅が無意識のうちに漱石から影響あるいはヒントを受けていると考えても無理はないだろう。
《野草》是鲁迅散文诗的代表作,写于1924年9月至1926年4月,被认为是独属于鲁迅自己的“新颖的形式”,是鲁迅之“非凡的想象力”(钱理群语)的产物。
然而,当细读了日本近代著名作家夏目漱石1908年在《朝日新闻》上连载的小品《梦十夜》之后,就会发现二者在形式上有着惊人的相似之处,在内容上也可以找到相近的地方,尤其是某些场面的设计十分接近。
鲁迅称漱石是他“最爱看的作者”之一,并亲自翻译过漱石的文学作品,那么,他对漱石的《梦十夜》这部别具特色的作品自然是相当熟悉的。
《梦十夜》共写了作者的十个梦,其中有四篇直接以“我做了这样一个梦”开篇,而在《野草》包括《题辞》在内的二十四篇文章中,竟也有七篇以“我梦见……”开头。
在形式上即便不是有意模仿,在潜意识中最起码也有《梦十夜》作底片。
《梦十夜》的《第三夜》中,“我”背着一个沉重的孩子(人的命运)在“渐次暗淡”的道路上艰难地行走,又无法将其丢弃。
而《野草》的《过客》中,“过客”(即鲁迅)明知前面是坟墓,还要不停地走下去,仿佛前面有一种“声音”在呼唤着自己。
虽然前者是无奈之举,后者是主动的选择,但在表现手法上颇为接近。
而在《野草》的《死火》中,“我”“坠入冰谷”的场景描写,又不能不令人想到《梦十夜》中的《第七夜》,“我”纵身从船上跳入波涛汹涌的大海的场面。
表现手法的接近只是一种外在的“貌合”,若细致阅读两部作品,在其内蕴方面也能找出相通之处。
夏目漱石说自己是“孤军奋战”,且战斗的对象不是具体的某个人,而是那些“于世不利”的陈风旧俗,并说“即便战死,还能得到慰藉----我曾全力以赴地战斗过”。
而鲁迅也是,宁愿战死,不可等死,所以才明知道前面是“坟”也要走下去。
鲁迅在《死火》中还写道,“死火”要么就在冰谷中冻死,要么就跃出冰谷把自己烧尽,虽然结果都是死亡,但烧尽至少还可以灿烂的光辉,给人类带来一点温暖和光明。
《野草》中《这样的战士》还写到,“战士”走进了“无物之阵”,他明明觉得四周都是敌人,却又看不见,抓不着。
“他举起投枪”,“一切都颓然倒地----然而只有一件外套,其中无物”。
由此可见,鲁迅和夏目漱石两个孤军奋战者的战斗意志、战斗决心、战斗的对手又何其相似。
鲁迅如此推崇夏目漱石,恐怕他不仅仅是从漱石的作品中得到了构思的启发,还从思想深处产生了共鸣吧。
『或る女』におけるフェミニズム思想をめぐって
洛陽外国語学院 李 先瑞
0、始めに
今頃フェミニズムが全世界でブームになっている。
筆者は日本のフェミニズム文学に非常に興味を持っている。
殊に男性作家有島武郎のフェミニズム思想に惹きつけられている。
本稿は有島武郎の代表作の『或る女』に現れているフェミニズム思想をめぐって展開しようと思う。
1、フェミニズムとフェミニズム文学
フェミニズムは男女の平等を強調し、個性解放を求める女のイメージを追求しようとした
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