日语自考之日本文学复习资料.docx
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日语自考之日本文学复习资料
一 次の諺の解釈に、もっとも適当だと思うことわざを一つえらんでください。
1「行為な技を持つものが失敗した」と言うときに使うものはどれですか。
A 弘法も筆の誤り B 鬼に金棒 C転ばぬ先の杖 D 後悔先に立たず
2「物事は慌てず遠くても安全な道を行くぐらいにしたい」というのはどれですか。
A 盗人を捕らえて縄をなうB急がば回れ
C先んずれば人を制すD短気は損気
3「人間として成長するために経験や苦労が必要である」というのはどれですか。
A 亀の功より年の功 B 桜折るばか柿折らぬばか
C可愛い子には旅をさせよ D すき腹にまずいものなし
4「物事というものは好きで興味を持って始めて熱中できるし、努力を積む気持ちになれるからうまくなれる」というのはどれですか。
A 猫に子判 B二階から目薬
C 暑さも寒さも彼岸 D 好きこそものの上手なれ
5「中途半端であるため、どちらの役にもたりにくい」というのはどれですか。
A 人の花は赤い B 下手の横好き C 帯に短したすきに長し D花よりだんご
二 次の短歌を呼んで、後の問いに答えなさい。
(1) みちのくに病む母上にいささかの
きゅうりを送る障りあらすな
1 この短歌の季節は次のどれか、一つ選びなさい。
A 早春 B 晩春 C 初夏 D 盛夏
2 この短歌は何区切れか、次から一つ選びなさい。
A 初区切れ B 二区切れ C 三区切れ D 四区切れ
3 障りあらすなの口語訳として、最も適当なものをひとつ選びなさい。
A 行ってしまった B 小包で送ったC 元気でいてくれD 元気でいるよ
(2) 小春日や 隣家の犬の 名はピカソ
1この短歌の季語は何ですか。
A 子春日 B 隣家 C 犬 D 名
2この短歌の季節は次のどれか、一つ選びなさい。
A 春 B 晩春 C秋 D 盛夏
3 この短歌は作者のどういう気持ちを表している。
A 可愛らしい B 飽きた C嫌い D嫌
三 次の各項の作品名または作者名は、雑然と並べてある、これらを時代順に並べ替えたとき、その第三番目にあたるものを日一つ選びなさい。
1 A土佐日記 B奥の細道 C更級日記 D十六夜日記
2 A平家物語 B雨月物語 C 源氏物語 D 竹取物語
3 A玉勝間 B 雨月物語 C 源氏物語 D竹取物語
4 A与謝無村 B徒然草 C枕草子 D方丈記
5 A紀貫之 B斉藤茂吉 C 良寛 D 柿本人麻呂
四 次は日本文学と日本文化の問題である。
( )に入るものを一つ選んでください。
1 短歌は奈良時代までに発生した日本固有の韻文学で、後世、( )を指すようになった。
A 長歌 B短歌 C旋頭歌 D 片歌
2「徒然草」は( )が書いた随筆である。
A 吉田兼好 B鴨長明 C清少納言 D紫式部
3「古池や蛙とびこむ水の音」( )によって書かれた有名な俳句である。
A与謝無村 B小林人茶 C松尾芭蕉 D井原西鶴
4大正期に「悪魔主義」と呼ばれていた作家は次の誰か。
A 永井荷風 B芥川龍之介 C川端康成 D谷崎潤一郎
5「俘虜記」や「野火」を書いた作家は次の誰か。
A 大岡昇平 B 野間宏 C 梅崎春生 D 島尾敏雄
6男児は三歳と五歳、女子は三歳と七歳とに当たる年の11月( )に氏神に参詣する行事を「七五三」という。
A 10日 B15日 C 20日 D 30日
7 日本最大の湖はどれですか。
A 琵琶湖 B 富士五湖 C阿寒湖 D湖山池
8 昭和四三年に、川端康成のノーベル賞受賞と平成六年( )のノーベル賞受賞によって、奈良平安時代から続く伝統ある日本文学が世界で注目されるようになつた。
A 大江健三郎 B村上春樹 C三島由紀夫 D上田秋成
9 日本で一番大きくて、七月になる祭りはどれですか。
( )
A 博多祭り B 葵まつり C祇園まつり D 青森豚祭り
10 日本円の五千円に書いてある人物は誰ですか。
( )
A 福沢諭吉 B樋口一葉 C 野口英世 D紫式部
11 『黒い雨』は誰の作品になりますか。
A 井伏鱒二 B大田洋子 C石川達三 D川端康成
12下に書いてあるのはどれが日本三大エッセイではない作品ですか。
A 『徒然草』 B『方丈記』 C『枕草子』 D『平家物語』
13松尾芭蕉は日本でとても有名な歌人です、下に書いてるのはどれが松尾芭蕉の作品ですか。
A 『奥の細道』 B『源氏物語』 C『隣りの女』 D『こころ』
14夏目漱石の作品はどれですか。
A 『我輩は猫である』 B『野火』 C『太郎』 D『鳥』
15日本で一番大きい中華街はどこですか。
A 南京町 B長崎 C博多 D横浜
大岡昇平(おおおかしょうへい、1909年(明治42年)3月6日-1988年(昭和63年)12月25日)は、日本の小説家・評論家・フランス文学翻訳家。
∙明治42年(1909年)3月6日-東京市牛込区新小川町に父・貞三郎、母・つるの長男として生まれた。
父貞三郎は和歌山市近郊の農家の三男で、昇平の生まれる前年上京して、株式仲買店に勤めていた。
母・つるは元芸妓。
∙大正10年(1921年)4月-府立一中受験に失敗し、青山学院中学部に入学。
∙大正14年(1925年)12月-成城第二中学校4年次に編入。
同級に古谷綱武、富永次郎、安原喜弘、加藤英倫。
また、山口二矢の実父である山口晋平も同級である(沢木耕太郎『テロルの決算』より)。
∙大正15年(1926年)4月-成城第二中学校が7年制の旧制成城高等学校となったことに伴い、高等科文科乙類(第一外国語としてドイツ語を学ぶクラス)に入学。
∙昭和2年(1927年)9月-アテネフランセの夜学でフランス語を学ぶ。
∙昭和3年(1928年)-村井康男を通じて小林秀雄を紹介され、小林からフランス語の個人教授を受ける。
詩人中原中也とも小林を通じて知り合った。
∙昭和4年(1929年)3月-旧制成城高等学校を卒業、4月-京都帝国大学文学部文学科入学。
在学中、河上徹太郎や中原中也らと同人誌「白痴群」を創刊。
∙昭和7年(1932年)3月-京都帝国大学卒業。
∙昭和8年(1933年)スタンダールの『パルムの僧院』を読み、以後スタンダールに傾倒。
∙昭和13年(1938年)10月-帝国酸素に翻訳係として就職する。
∙昭和18年(1943年)6月-帝国酸素を退社、11月-川崎重工業の神戸艦船工場資材部に勤務。
∙昭和19年(1944年)3月-教育召集。
7月フィリピン・マニラに送られ、その後ミンドロ島に派遣される。
∙昭和20年(1945年)1月-米軍の捕虜になり、レイテ島収容所に収容される。
8月、敗戦。
同年12月、帰国し、家族の疎開先であった兵庫県明石市大久保町に着いた。
∙昭和63年(1988年)12月25日-死去。
人物像[編集]
40歳を過ぎて小説家になった晩成型だが、たちまち文壇の中堅となる。
推理小説も好きで、海外ものを翻訳したり、自分でも書いている。
とりわけ『若草物語』の題で連載し、後に『事件』と改題した作品は日本推理作家協会賞を受賞し、映画やテレビドラマになるなど、高い評価を受けている。
太平洋戦争で出征し、フィリピンで捕虜となった経験に基づいて「捉まるまで」を発表、その後連作として『俘虜記』を完成した。
また人肉食を扱った『野火』は、比喩を駆使した作品として丸谷才一の『文章読本』でテキストに使われている。
『武蔵野夫人』は『ボヴァリー夫人』に倣って書いた姦通小説で、ベストセラーとなったが、1980年代、ポルノ小説にこの題が使われたため抗議した。
また、河上徹太郎、小林秀雄らの愛人で、白洲正子の友人だった坂本睦子の自殺後、これをモデルに『花影』を書き、新潮社文学賞と毎日出版文化賞を受賞した。
しかし高見順は、肝心の大岡自身の苦悩が描かれていないと批判。
この小説は睦子を救えなかった青山二郎を指弾するものではないかという解釈があるが、大岡自身は、限定版『花影』のあとがきにおいて「ヒロインはその生れと性情の自然の結果として自殺するのですが、そのきっかけは、彼女の保護者で、父代わりである高島が黄瀬戸の盃を二重売りして、彼女を裏切ったためでした。
(中略)あとは私が作った物語ですが、もし高島にモデルがあるなら、私の想像はその人を傷つけることになるでしょう」と述べているだけで、大岡自身が青山二郎を指弾する目的で書いたと言及しているわけではない。
文壇有数の論争家であり、井上靖の『蒼き狼』を史実を改変するものとして批判し、歴史小説をめぐって論争となった。
同じく史実を改変するものとして、海音寺潮五郎の『二本の銀杏』や『悪人列伝』等を批判し、これに反論する海音寺と『群像』昭和37年8月号上で論争した。
中原の評価について、篠田一士と論争したこともあった。
自身でも『将門記』『天誅組』などの歴史小説を書いたが、小説というより史伝に近いものである。
また江藤淳の『漱石とアーサー王伝説』が出た時もこれを厳しく批判し、次いで森鴎外の『堺事件』は明治政府に都合のいいように事実を捻じ曲げていると批判し、国文学者と論争になった。
そして自身で『堺港攘夷始末』の連載を始めたが、その中で鴎外が依拠した資料に既にゆがみがあったことが明らかになった。
本作は未完のまま大岡は急逝した。
九割方は出来ていたため、中央公論社から刊行された。
のち中公文庫に収録。
中村光夫・三島由紀夫・福田恒存・吉田健一と「鉢の木会」を作って定期的に交流していた時期もある。
丸善で季刊誌『聲』を昭和34年前後に10号刊行している。
また、若い頃から演劇にも関心を示し続け、舞台「赤と黒」の台本を書いたりした。
しかしこの際、演出の菊田一夫と対立し、初演を愛知での「レイテ同生会」への出席を理由に欠席した。
また後年、仲代の演じる「ハムレット」には、「未熟」との厳しい評価を下している。
『レイテ戦記』は日本の代表的な戦記といえるが、野間文芸賞を辞退した。
これは選考委員の舟橋聖一との軋轢による。
のち『中原中也』で同賞を受賞するが、選評で舟橋は難癖をつけた。
1972年(昭和47年)、日本芸術院会員に選ばれたが「捕虜になった過去があるから」と言って辞退し、皮肉をこめた国家への抵抗と見られた。
しかし最晩年に昭和天皇の重態に際して「おいたわしい」と書き、波紋を呼んだ(どちらもウラを読まなければ普通の発言であるという見方もできる)。
晩年は文壇のご意見番、重鎮的存在であった。
昭和55年(1980年)から『文学界』に「成城だより」を二回の中断をはさんで連載。
記号論や不完全性定理、さらに少女漫画(萩尾望都、高野文子など)、漫画「じゃりん子チエ」、ロック(村八分、ザ・クラッシュ、ジミ・ヘンドリックス、ドアーズなど)、ポップス(中島みゆき、アバなど。
当人は「残念ながら、音楽は洋楽種の方がいいようなり」と述べている)、映画(フィリピンをロケ地とした地獄の黙示録など)などに言及した。
これらのセレクトには、長男の貞一の影響が大きい。
またYMOの坂本龍一が自分の担当編集者であった坂本一亀の息子であることを知り、「『げっ』と驚くのはこっちなり」とも述べるまでの若々しい関心を示す様が、カリスマ的な人気を呼んだ。
孫娘の命名をめぐる『萌野』は蓮實重彦の賞賛を受け、大江健三郎、柄谷行人などからも敬意を向けられていた。
大岡は、「萌野」は「もや」とは読めないと嘆いたが、この命名は平成以降における大量の「個性的な子供の命名」の先駆でもあった。
また、武田泰淳(及び妻の武田百合子)、埴谷雄高らとも親交が厚かった。
昭和天皇崩御の二週間前、検査入院中に逝去。
『小説家夏目漱石』筑摩書房で、1989年読売文学賞を受けた。
また遺稿集『昭和末』岩波書店が同年10月に出された。
なお「全集」は、中央公論社で『大岡昇平全集』全16巻が1973年-76年に、岩波書店で『大岡昇平集』全18巻が1982-84年に、決定版が筑摩書房で『大岡昇平全集』全23巻別巻1で1994-2003年に出された。
サタニズム
サタニズム(Satanism)とは、宗教的、あるいは哲学的な概念、またはその運動。
悪魔主義、悪魔崇拝。
一般的にサタニズムと言えば、「サタン(悪魔)」を崇拝し、悪の力をもって善なる力に打ち勝ち、世界を支配することが想像されるが、最大のサタニズム組織である「悪魔教会(ChurchofSatan)」はこの考え方を否定する。
悪魔教会は「サタン」が実際に存在するともしておらず、単にある概念を物質的に代表する名称として「サタン」の名を捉えている。
サタニズムにも様々な形が存在するが、多くのサタニズムでは、サタンとは次のいずれかに該当する。
即ち、イデア・人間性のある一面、あらゆる存在の源・あるいは宇宙を超越した何らかの力の人間界でのインターフェイス。
サタンと言えば悪や理不尽な力を連想させる言葉ではあるが、サタニズムは支持者にとってある少数派的な精神性と思想を示す言葉でもある。
例えばそれは、少数派(左利き)と多数派(右利き)に言い換えることができよう。
多数派(右利き)の人々は、何か不満があれば、自分と同様に多くの人も困っているであろうと考え、状況を変化させようと努力する。
それに対し少数派(左利き)の人々は、自己解決が全てであり、自分を変えようと努力する。
悪魔教会の創設者であるアントン・ラヴェイは、あらゆる神を信仰しない。
例えそれがサタンという名の神であっても、だ。
同様に、悪魔の掟に従うこともない(このことは、有神論のサタニズム信仰者も存在することから、サタニズムが自己矛盾した存在であると誤解されがちである)。
よって神に仕え、天の御命に従うような(欧米では一般的な)考え方も存在せず、サタニズムにおいては自身の物質的・身体的な発展と解決が殊更に重視される。
このような理由から、サタニズム信仰者は伝統的な宗教の信仰を疎んじ(キリスト教やユダヤ教。
欧米では何らかの伝統的な宗教を信仰することが当然とされる)、自己中心的な世界観を構築し、エゴイスティックであることを好むと捉えられる。
谷崎潤一郎(たにざきじゅんいちろう、1886年(明治19年)7月24日-1965年(昭和40年)7月30日)は、明治末期から第2次世界大戦後にかけて活動した日本の小説家。
耽美主義とされる作風で、『痴人の愛』『細雪』など多くの秀作を残し、文豪と称された。
代表作:
∙刺青
∙痴人の愛
∙卍
∙蓼喰ふ虫
∙細雪
∙鍵
∙白日夢
∙春琴抄
∙瘋癲老人日記
∙少将滋幹の母
∙文章読本
∙陰翳禮讚
∙現代語訳『源氏物語』
∙二人の稚児
∙鮫人
∙夢の浮橋
∙愛すればこそ
作品の評価[編集]
長い間、日本の近代文学の主流は私小説であり、作家の私生活を描き、人生をいかに生きるべきかを追求する有様を読者に提供することが主な目的とされてきた。
その雰囲気は陰鬱であり、陰鬱であることこそが芸術であるという考えかたが一般的であった。
そのため、谷崎の作品はしばしば「思想がない」として低い評価がなされてきた。
しかし私小説中心の文学観から離れたとき、谷崎の小説世界の豊潤さに高い評価が与えられてもいる。
『文章読本』でみずから主張するような「含蓄」のある文体で、いわゆる日本的な美、性や官能を耽美的に描いた。
情緒的で豊潤でありつつ高い論理性を誇るその文体は、魅力的な日本語の文章が至りうるひとつの極致である。
しかし、逆に志賀直哉的な簡潔な表現を好む読手からは評価が低い。
強く魅力的な女性登場人物と、それに対するマゾヒスティックな主人公の思慕がしばしば作品に登場することから、谷崎とかれの作品は女性礼讃やフェミニズムの観点から論じられることがあるが、これらは谷崎の性愛と肉体に対する興味から発するものであると見るのが一般である。
『家畜人ヤプー』の作者(異説あり)天野哲夫は、谷崎文学はマゾヒズム抜きでは語り得ないと指摘。
結婚前の松子夫人にあてた書簡などにもご主人様と下僕の関係として扱って欲しいなどの特異な文面が多く見られる。
谷崎の諸作品にはしばしば谷崎の脚に対するフェティシズム(脚フェチ)が表れている。
関東大震災以前の谷崎の作風は、モダンかつ大衆的であることが知られているが、谷崎自身はそのことを後悔していたらしく、震災以前の作品は「自分の作品として認めたくないものが多い」と言った。
そのために震災以前と以後の作品を文学史でも明確に分け、以前の作品を以後の作品に比して低い評価をすることが通例となっていた。
しかし近年、物語小説の復活の機運と、千葉俊二、細江光らにより震災以前の作品への再評価がなされている。
また後期にあっても、『猫と庄造と二人のをんな』『台所太平記』のように大正期的な雰囲気をうけついだ作品を谷崎自身が書きついでいることを見ても、作者の低評価については今すこし判断を保留すべき部分がある。
短編小説群のなかでは、代表作『刺青』(1910年)における耽美主義、マゾヒズム、江戸文明への憧れと近代化への拒絶、『幇間』(1911年)の自虐趣味、『お艶殺し』(1915年)の江戸趣味と歌舞伎のような豪奢な残虐性、『神童』(1916年)の幼年期に対する憧憬と堕落の愉悦、『人魚の嘆き』(1917年)のロマンティズムや幻想趣味、『異端者の悲しみ』(同年)のエロティシズム、『母を恋ふる記』(1919年)の近親相姦的な愛情と女性崇拝、『鮫人』(1920年)の伝奇趣味などをあげることができる。
また1920年に発表された『藝術一家言』ではその理知的な芸術観や物語論を展開しており、後の芥川龍之介との論争を考える上で興味深い。
旧居「倚松庵」(神戸市東灘区)
関西移住後の代表作は長編が中心となり、ここで谷崎の物語作家としての質的な転換が起こる。
『痴人の愛』(1924年)は長編における豊かな風俗性と物語構造の堅牢さがはじめて実を結んだ作であり、特に風俗描写の問題は大正期諸作の総まとめとして、また戦中戦後の作品への手法論的な影響として大きな意味を持つ。
『卍』、『蓼喰ふ虫』(ともに1928年)は、いわゆる夫人譲渡事件などに題材を取った双子の長編というべき作品であるが、現代風俗を扱いながら男女愛欲のさまを丁寧に描き、性愛の底知れぬ深遠を見せて、しかも、それが一皮めくれば文明や社会とつながっているという状況を描いた傑作である。
手法論としてもすでに吉田健一らが指摘するとおり、昭和初期に勃興したモダニズム文学の影響を受けている。
また、この両作から谷崎の文体は目に見えて優れたものとなってゆく。
『乱菊物語』(1930年)、『吉野葛』、『盲目物語』、『武州公秘話』(すべて1931年)はいずれも当時の谷崎が関心を持っていた歴史物である。
舞台や時代を変えつつも、大正期以来の耽美主義、マゾヒズム、残虐性、ロマン趣味、幻想趣味、エロティシズム、女性崇拝などが受継がれている点が注目される。
こうした一連の作品の最終的な成果が『蘆刈』(1932年)と『春琴抄』(1933年)であるといえるだろう。
特に短編『春琴抄』は谷崎的な主題をすべて含みつつ、かなり実験的な文体を用いることで作者のいわゆる「含蓄」を内に含んだ傑作となっており、その代表作と呼ぶにふさわしい。
1934年に『陰翳禮讚』、翌1935年に『文章読本』と二つの批評により、みずからの美意識を遺憾なく開陳するとともに当時の文明を高度に批評した。
この時期のしめくくりとなるのは「猫と庄造と二人のをんな」(1936年)である。
あたかも大正期の谷崎がよみがえり、『卍』、『蓼喰ふ虫』の文体によって書いたかのような小編の佳品である。
戦中・戦後の谷崎の活動は『細雪』と『源氏物語』現代語訳の執筆に代表される。
『細雪』は1942年ごろより筆を起こし、『中央公論』に掲載されたが、1943年奢侈な場面が多いとして2回で掲載禁止となり、以降発表を断念。
この年に私家版上巻のみを出版して、戦中何度かの断続を経ながら書き継いだ。
1947年ごろには下巻の相当な部分まで完成し、翌1948年全編を出版。
これによって谷崎の名声は確立する。
内容そのものは芦屋の上流家庭の日常を淡々と描いた長編小説にすぎないが、その風俗性の豊かさと源氏物語のつよい影響を受けたモダニズム小説的な手法はきわめて高い評価を得ている。
一方の『源氏物語』は、1939年から『潤一郎訳源氏物語』として発表されるが、中宮の密通に関わる部分は削除された。
その後さらに手を入れて1951年に『潤一郎新訳源氏物語』、1964年に『潤一郎新々訳源氏物語』が刊行され、決定版となる。
この訳出作業および源氏物語が谷崎の文学に与えた影響ははかりしれない。
小は文体の変転から大は小説の手法論に至るまで、彼の作品にはさまざまに源氏物語が影を落としている。
このほか戦後の代表作としては母恋いと近親相姦的愛欲の系譜である『少将滋幹の母』(1949年)、『夢の浮橋』(1959年)がある。
また『鍵』(1956年)は抑圧される性欲と男女の三角関係をテーマにし、『卍』、『蓼喰ふ虫』の系譜の総決算といえる。
さらに『瘋癲老人日記』(1961年)の迫りくる死の恐怖と愉悦が被虐的な愛欲に重ねあわされた境地もきわめて優れたものであり、その文体論的な実験は谷崎の戦後における到達点の一つを示している。
女性関係[編集]
1915年、谷崎は石川千代子と結婚したが、1921年頃谷崎は千代子の妹せい子(『痴人の愛』のモデル)に惹かれ、千代子夫人とは不和となった。
谷崎の友人佐藤春夫は千代子の境遇に同情し、好意を寄せ、三角関係に陥った(佐藤の代表作の一つ「秋刀魚の歌」は千代子に寄せる心情を歌ったもの。
また、佐藤は『この三つのもの』を、谷崎は『神と人との間』を書いている)。
結局、1926年二人は和解、1930年、千代子は谷崎と離婚し、佐藤と再婚した。
このとき、3人連名の「・・・・・・我等三人はこの度合議をもって、千代は潤一郎と離別致し、春夫と結婚致す事と相成り、・・・・・・素より双方交際の儀は従前の通りにつき、右御諒承の上、一層の御厚誼を賜り度く、いずれ相当仲人を立て、御披露に及ぶべく候えども、取あえず寸楮を以て、御通知申し上げ候・・・・・・」」との声明文を発表したことで「細君譲渡事件」として世の話題になった。
翌1931年、谷崎は古川丁未子と結婚するが、1934年離婚。
翌年、森田松子と結婚した。
松子が妊娠した際、「藝術的雰囲気を守りたい」という谷崎の意向で中絶したと、谷崎自身が「雪後庵夜話」に書いたため、有名となり、それゆえに谷崎を批判する者もあるが、戦時下に書かれた「初昔」によれば、三人の医師から健康上中絶を勧められたというのが真相で、そうでなければ松子の三人の姉妹や医師をどう説得したのか説明がつかない(これも『谷崎潤一郎伝』による)。
『徒然草』(つれづれぐさ)は、吉田兼好(卜部兼好、兼好法師)が書いた随筆。
清少納言の『枕草子』、鴨長明の『方丈記』と合わせて日本三大随筆の一つと評価されている。
吉田兼好(よしだけんこう、弘安6年(1283年)頃か-文和元年/正平7年(1352年)以後)は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての官人・遁世者・歌人・随筆家。
清少納言(せいしょうなごん、康保3年頃(966年?
)-万寿2年頃(1025年?
))は、平安時代
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