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日本文学史
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日本文学概観
日本文学は時代で上代、中古、中世、近世、近現代五つ時代を区分される。
1 上代(大和·奈良時代)━━━━文学の芽生えさ時期から平安へ遷都まで(794)
2 中古(平安時代)━━━━平安遷都から鎌倉幕府が成立したまで(1192)
3 中世(鎌倉·室町時代)━━━━鎌倉幕府が成立したから江戸時代幕府成立したまで(1603)
4 近世(江戸時代)━━━━江戸幕府が成立したから明治維新まで(1868)
5 近代(明治·大正·昭和·平成時代)━━━━明治維新から今に到るまで
1、上代文学(日本の上代文学史は、上代(およそ奈良時代まで)の日本文学の歴史である。
)
1、概略
漢字が伝来するまで文字を持たなかった日本人は、口述で神話や伝説を伝えてきた(口承文学)。
中国大陸から朝鮮半島を経由して漢字が輸入され、漢文と、自分達の話し言葉に漢字を当てはめた万葉仮名が生まれた。
漢字の伝来により成立したのが『日本書紀』と『古事記』である(記紀)。
記紀は歴史書であるが、文学作品としての価値も評価されている。
『懐風藻』は日本文学における最古の漢詩集である。
また、『万葉集』のような和歌集も生まれた。
万葉初期の作品には見られなかった個人としての作家性も、後期には多く見られるようになり、柿本人麻呂や山上憶良、大伴家持といった著名な歌人も登場した。
2、文学の周辺
遣隋使によって中国大陸から文化的に大きな影響を受けた。
これは遣唐使に引き継がれた。
史書として『古事記』『日本書紀』、地方誌として『風土記』が書かれた。
3、上代文学の主な作品
∙『三経義疏』聖徳太子
『三経義疏』(さんぎょうぎしょ)は、聖徳太子によって著されたとされる『法華義疏』(伝 推古天皇23年(615年))・『勝鬘経義疏』(伝推古天皇19年(611年))・『維摩経義疏』(伝推古天皇21年(613年))の総称である。
それぞれ『法華経』・『勝鬘経』・『維摩経』の三経の注釈書(義疏・注疏)である。
日本書紀に推古天皇14年(606年)聖徳太子が勝鬘経・法華経を講じたという記事があることもあり、いずれも聖徳太子の著したものと信じられてきた。
『法華義疏』のみ聖徳太子真筆の草稿とされるものが残存しているが、『勝鬘経義疏』・『維摩経義疏』に関しては後の時代の写本のみ伝えられている。
∙712年『古事記』稗田阿礼・太安万侶 /神話、伝承
712年に、
天皇の遺志を受けて、
が誦して、太安万侶によって神話、伝説、歌謡、歴史などを編集された日本最古の書籍。
全三巻。
天地の初めから、推古天皇にいたるまでのことが書かれ、天皇を中心とした国家の形成過程を描いている。
神話、伝説、歌謡などは文学的価値が高い。
∙713年頃『風土記』/地誌
∙713年頃、朝廷が諸国に命じて、諸国の産物、地名の由来、古老が伝える民話や伝説などを記させた日本最初の地方誌である。
現存しているのは
・
・
・
の五カ国のものだけで、そのうち完本は『出雲国風土記』だけである。
∙751年『懐風藻』未詳/漢詩集
∙
天皇が漢詩文を賞歴するゆえに、漢詩文の知識や創作が盛んになりつつある。
奈良時代には、たくさんの漢詩集が出てきたが、現存していうるのは、『懐風藻』だけである。
∙ 751年に編纂された日本最古の漢詩集。
編者は
と言われていたが、定説がない。
∙720年『日本書紀』舎人親王 /神話、歴史
720年に
などが編集し、漢文体で書いた30巻よりなる歴史書の形をしたものである。
巻一、二は宇宙創造にまつわる神話が中心で、巻三以下は、神武天皇から持統天皇までの伝説・説話・歌謡などが記されている。
中国の歴史書(司馬遷の『史記』など)の体裁をまね、また事跡に対する異伝をも載せるなど、『古事記』よりも客観的な歴史書としての性格が強い。
∙
∙759年以前『万葉集』大伴家持ら/歌集
紀元340年から759年までの400余年の長時間に亘っている間に作られている日本最古の歌集である。
万葉集大伴家持らによって編纂されたものだといわれている。
全二十巻。
古くは古墳・飛鳥時代から、奈良朝までの歌を収める。
詠者も天皇から一般庶民にいたるまで各階層にわたる。
歌風は自然と共に生きた万葉人の心を反映して、おおらかで、素朴であり、「ますらおぶり」と言われる。
期間がほぼ400年と長きにわたるので、一期から四期にわけている。
∙758年-822年頃『日本現報善悪霊異記(日本霊異記)』景戒 / 説話
∙『日本国現報善悪霊異記』(にほんこくげんほうぜんあくりょういき)は、平安時代初期に書かれ、伝承された最古の説話集で『日本霊異記』と略して呼ぶことが多い。
著者は景戒。
上・中・下の三巻。
変則的な漢文で表記されている。
∙764年『百万塔陀羅尼経』
∙
∙772年『歌経標式』藤原浜成 / 歌学書
∙歌経標式』(かきょうひょうしき)とは、奈良時代の人物である藤原浜成が著した歌論書。
歌論書としては現存最古のもので、歌病論のはしりともなった。
∙797年『続日本紀』/歴史
∙『続日本紀』(しょくにほんぎ)は、平安時代初期に編纂された勅撰史書。
『日本書紀』に続く六国史の第二にあたる。
菅野真道らが延暦16年(797年)に完成した。
文武天皇元年(697年)から桓武天皇の延暦10年(791年)まで95年間の歴史を扱い、全40巻から成る。
奈良時代の基本史料である。
編年体、漢文表記である。
∙807年『古語拾遺』斎部広成 /神話
∙古語拾遺(こごしゅうい)は平安時代の神道資料である。
官人であった斎部広成が大同2年(807年)に編纂した。
全1巻。
2、日本の中古文学史(日本の中古文学史(にほんのちゅうこぶんがくし)は、中古(およそ平安時代)の日本文学の歴史である。
)
1、概略
漢詩・漢文が上代に引き続き栄え、特に『和漢朗詠集』でも多く採り上げられた白居易(白楽天)の影響は大きかった。
『源氏物語』などの仮名の物語文学においても、「桐壺巻」などで白楽天の『長恨歌』との関係が強く認められる。
また、政府の教育機関であった大学寮においても漢詩・漢文・歴史を教授した紀伝道の地位が上昇し、紀伝道の教授である文章博士から右大臣となった菅原道真は、政治家としてのみならず、優れた文学者としても知られている。
905年には初の勅撰和歌集である『古今和歌集』が編纂され、和歌が漢詩と対等の位置を占めるようになった。
歌合せなどの公的な場での和歌が多く認められるようになる他、屏風歌なども多く詠まれた。
それに伴い、著名な歌人の歌を集めた私家集の存在が認められるようになる。
成立時期や編者などは各家集ごとに状況が異なるため未詳であるが、紀貫之の歌を集めた『貫之集』、伊勢の『伊勢集』など後世の歌人・作品に影響を与えたと思われる作品も多い。
平安時代を通して、男性貴族が政治で使う文字は漢字であり、文章は漢文であり続けた。
しかしその一方で「かな」による表現が盛んに始まった。
後宮の女房など女性たちが「かな」を使用したため、その女性たちと交流を持つ男性官人も「かな」を使うようになった。
前述の和歌の隆盛も、「かな」の流行とは無縁ではなく、多くの女流歌人を生み出している。
紀貫之が女性の立場から仮名で書いた『土佐日記』をはじめとして、仮名文の日記風の作品が認められるようになる。
また清少納言の手による、随想的章段を含む『枕草子』などが書かれ、随筆的文学が栄えていくことにも繋がった。
現存しない散逸物語も含め、多くの物語作品が作られたのもこの時期の特徴である。
『源氏物語』で「物語の出で来はじめの祖なる竹取の翁」と表現される『竹取物語』に始まり、『伊勢物語』・『うつほ物語』・『落窪物語』など現存する物語が多く書かれている。
これらは平安初期においては男性の手によると思われるものも多いが、仮名による女性の作品が増えていくのも特徴である。
先行する数多の漢文学、仮名文学双方を踏まえた紫式部による『源氏物語』は、中古の文学の代表作とも言うべき長大な作品で、以降の日本の文学史全体に強い影響を与えている。
また様々な説話集も編まれており、その集大成とも言いうる『今昔物語集』などの説話集の存在も、この時代の文化や文学の様子をよく現している。
2、文学の周辺
この時代、文学を含めた芸術や政治の中心は京都であった。
平安時代の中期には国風文化が栄えた。
歴史書としては『大鏡』が書かれた。
また、猿楽が盛んになり、これは後に能楽としての完成に繋がった。
3、中古文学の主な作品
成立時期不明〖堤中納言物語(つつみちゅうなごんものがたり)〗未詳/小説集
日本文学史上最初の短編小説集。
作者未詳。
成立時間未詳。
主な内容は、10編、及び未完の断片で構成される。
∙935年頃『土佐日記』紀貫之 /日記
特徴:
日本最古のかな書きの日記文学。
作者の紀貫之が、土佐(現在の高知県)の国司としての任期が満ちて、都へ帰るまでの旅路を日記として書き記したもの。
この作品が文学史上高い評価を受けている理由の一つに、「かな書きにより思うことを自由に書き記し、日記文学という新しいジャンルを築いた」ことにある。
国風文化の中で生み出されたかな文字は、当初女性が使う文字という風潮が強く、男性は一般的に漢文でものを書き記していたのだが、漢文は表現上の規制が多く漢詩などを勉強すると良くわかる、思ったことを自由に書きにくいという欠点がありました。
そのため紀貫之は、自身を女性のように表現することでかな書きの日記を創り出したのだ。
∙974年以後『蜻蛉日記』藤原道綱母 /日記
『蜻蛉日記』(かげろうにっき、かげろうのにっき、かげろうにき)は、上中下の三巻よりなる。
題名は日記のなかの文「なほものはかなきを思へば、あるかなきかの心ちするかげろふの日記といふべし」より。
夫との結婚生活や、兼家のもうひとりの妻との競争、夫に次々とできる妻妾のことが書かれ、また唐崎祓・石山詣・長谷詣などの旅先でのできごと、上流貴族との交際、さらに母の死による孤独、息子藤原道綱の成長や結婚、兼家の旧妻である源兼忠女の娘を引き取った養女の結婚話とその破談についての記事がある。
藤原道綱母の没年より約20年前、39歳の大晦日を最後に筆が途絶えている。
歌人との交流についても書かれており、掲載の和歌は261首。
なかでも「なげきつつひとりぬる夜のあくるまはいかに久しきものとかは知る」は百人一首にとられている。
女流日記のさきがけとされ、『源氏物語』はじめ多くの文学に影響を与えた。
また、自らの心情や経験を客観的に省察する自照文学のはしりともされている。
なお兼家への恨み言を綴ったもの、ないし復讐のための書とする学者もある。
∙1000年頃『枕草子』清少納言 /随筆
序文:
春はあけぼの。
やうやう白くなりゆく山ぎは、少し明かりて、紫だちたる雲の細くたなびきたる。
◆特徴:
身の回りの出来事を、鋭い観察眼と豊かな感受性で書きつづった良作。
特に、当時の宮廷人の美意識を「をかし」の理念で書き表したことで知られる。
学問に優れた彼女は、当時摂関政治により勢力を誇っていた藤原氏の娘である中宮定子(ちゅうぐうていし)にいわゆる家庭教師的な立場として仕え、活躍した。
中宮定子の“中宮”とは当時の女官の官位の一つであり、皇后の次に高い位。
要は、天皇陛下の奥方たちのNo.2に仕えたわけである。
「枕草子」は、清少納言が宮廷生活の中で心に残ったできごとなどを、感じたままに書きつづったものであると言われている。
感じたままに書きつづるというのは実はとても大変な作業であり、それが後世に残る名作としての力を持ったということから、清少納言の文筆能力は相当高かったのだろう。
作品は約300の章段で構成されており、内容的には主に次の3つにわけられるようである。
∙1008年頃『源氏物語』紫式部 /物語
平安時代中期(1008年頃)に成立した日本の京都を舞台とした長編物語、小説である。
物語は母系制が色濃い平安朝中期(概ね10世紀頃)を舞台にして、天皇の皇子として生まれ、才能・容姿ともにめぐまれながら臣籍降下して源氏姓となった光源氏の栄華と苦悩の人生、およびその子孫の人生を描く。
通説とされる三部構成説に基づくと、各部のメインテーマは次のようになるとされ、長篇恋愛小説として間然とするところのない首尾を整えている
∙1028年以後『栄華物語』赤染衛門 /歴史物語
成立はだいたい1093年、作者は赤染衛門と考えられているが、定説がない。
日本最初の歴史物語。
藤原道長の栄華を中心に、道長を讃美する感傷的な編年体物語。
批判精神に乏しく、物語性を重要視するあまり、史実との齟齬を多く有する。
∙1120年頃『大鏡』未詳/歴史物語
11世紀末に成立して、『栄華物語』と同じように藤原道長の栄華を中心にした歴史物語である。
紀伝体。
最初の鏡物。
今鏡、水鏡、増鏡と合わせて四鏡と呼ばれている「ダイコンミズマシ(大・今・水・増)」。
政界への暴露、歴史への批判がその特徴である。
∙1059年以後『更級日記』菅原孝標女 /日記
菅原孝標女 1060年 自伝的日記。
作者13歳の寛仁4年(1020年)から、52歳頃の康平2年(1059年)までの約40年間の回想録。
全1巻。
東国に任官していた父・菅原孝標の任期が終了したので帰国するところから起筆し、源氏物語を読みふけり、物語世界への憧憬に過ごした少女時代、度重なる身内の死去によって見た厳しい現実、30代での結婚と仲俊らの出産、夫の単身赴任そして康平元年秋の夫の病死などを経て、子供たちが巣立った後の孤独の中で次第に深まった仏教への傾斜までが平明な文体で描かれている。
書名の「更科」は、姨捨山の所在地である更級から名を取ったのである。
三、中世時代(日本の中世文学史(にほんのちゅうせいぶんがくし)は、中世(およそ鎌倉時代から安土桃山時代まで)の日本文学の歴史である。
)
1、概略
源頼朝が鎌倉幕府を開き、政治の中心が上方から東国へ移ったが、京都は文化的中心であり続けた。
鎌倉時代には藤原定家らによって華麗な技巧に特徴がある『新古今和歌集』が編まれた。
また、現代日本語の直系の祖先と言える和漢混淆文が生まれ、多くの作品が書かれた。
鴨長明の『方丈記』吉田兼好の『徒然草』などがこれにあたる。
『平家物語』は琵琶法師により、室町時代には『太平記』が太平記読みにより語られた。
その他説経節等語り物の充実は、近世の浄瑠璃の隆盛へと繋がってゆく。
御伽草子などの物語も一般民衆の間で読まれ、文芸が知識階級のみのものではなくなり庶民の間へも広まっていく。
女流文学も引き続き盛んであったが、平安時代中期とは異なり、日記文学が主流となった。
しかし、南北朝時代に、朝廷の衰微を背景にして、女流文学は途絶えてしまう。
室町時代には京都五山や公家が中心となり古典研究が行われ、また鎌倉時代から上句と下句を連ねる和歌である連歌も貴族から一般民衆までの間で行われた。
2、文学の周辺
また、能楽などの舞台芸術が多くの人々に受け入れられ、その美学は世阿弥によって『風姿花伝』にまとめられた。
仏教では13世紀中頃には道元の『正法眼蔵』、弟子の懐奘の『正法眼蔵随聞記』が成立したほか、禅僧達の作った「五山文藝」という膨大な文献も残されている。
軍記物では『増鏡』が書かれた。
3、中世文学の主な作品
∙1205年『新古今和歌集』後鳥羽院勅令/ 藤原定家・源通具ら/勅撰和歌集
『新古今和歌集』(しんこきんわかしゅう)は鎌倉時代初期、後鳥羽上皇の勅命によって編まれた勅撰和歌集。
古今和歌集以後の8勅撰和歌集、いわゆる「八代集」の最後を飾る。
『古今集』を範として七代集を集大成する目的で編まれ、新興文学である連歌・今様に侵蝕されつつあった短歌の世界を典雅な空間に復帰させようとした歌集。
古今以来の伝統を引き継ぎ、かつ独自の美世界を現出した。
「万葉」「古今」と並んで三大歌風の一である「新古今調」を作り、和歌のみならず後世の連歌・俳諧・謡曲に大きな影響を残した。
一般的に4つの期間に分かれる。
∙1212年『方丈記』鴨長明/随筆
『方丈記』(ほうじょうき)は、鴨長明(かものちょうめい、かものながあきら)によって書かれた鎌倉時代の文学作品である。
日本中世文学の代表的な随筆とされ、約100年後に執筆された吉田兼好の『徒然草』、清少納言の『枕草子』とあわせて日本三大随筆とも呼ばれる。
∙1216年 『平家物語』未詳/軍記物語
『平家物語』(へいけものがたり)は、鎌倉時代に成立したと思われる、平家の栄華と没落を描いた軍記物語である。
保元の乱・平治の乱勝利後の平家と敗れた源家の対照、源平の戦いから平家の滅亡を追ううちに、没落しはじめた平安貴族たちと新たに台頭した武士たちの織りなす人間模様を見事に描き出している。
和漢混淆文で書かれた代表的作品であり、平易で流麗な名文として知られ、「祇園精舎の鐘の声……」の有名な書き出しをはじめとして、広く人口に膾炙している。
∙1330年頃『徒然草』吉田兼好/随筆
『徒然草』(つれづれぐさ)は、吉田兼好(卜部兼好、兼好法師、兼好)が書いたとされる随筆。
清少納言の『枕草子』、鴨長明の『方丈記』と合わせて日本三大随筆の一つと評価されている。
∙1242年以後『宇治拾遺物語』未詳/説話
『宇治拾遺物語』(うじしゅういものがたり)は、13世紀前半頃に成立した、中世日本の説話物語集である。
『今昔物語集』と並んで説話文学の傑作とされる。
編著者は未詳。
古い形では上下の二巻本であったようだ。
収録されている説話は、序文によれば、日本のみならず、天竺(インド)や大唐(中国)の三国を舞台とし、「あはれ」な話、「をかし」な話、「恐ろしき」話など多彩な説話を集めたものであると解説されている。
ただ、オリジナルの説話は少なく、『今昔物語集』など先行する様々な説話集と共通する話が多い(説話の直接の出典には、『古事談』『十訓抄』『打聞集』などに類似の話が見られ、『今昔』との重出話にいたっては80余話もの数にのぼる)。
貴族から庶民までの幅広い登場人物、日常的な話題から珍奇な滑稽談など幅広い内容の説話を含む。
「芋粥」の話などは芥川龍之介の短編小説の題材にも取られている(『今昔物語集』にも同じ説話がある)
∙1348年 『太平記』未詳/軍記
『太平記』(たいへいき)は全40巻で、南北朝時代を舞台に、後醍醐天皇の即位から、鎌倉幕府の滅亡、建武の新政とその崩壊後の南北朝分裂、観応の擾乱、2代将軍足利義詮の死去と細川頼之の管領就任まで(1318年(文保2年)-1368年(貞治6年)頃までの約50年間)を書く軍記物語。
今川家本、古活字本、西源院本などの諸種がある。
「太平」とは平和を祈願する意味で付けられていると考えられており、怨霊鎮魂的な意義も指摘されている。
4、近世時代(日本の近世文学史は、およそ江戸時代の日本文学の歴史である。
近世というのは、1603年徳川家康が江戸幕府を開設してから1868年明治維新までの260余年の期間をさす。
)
1、概略
日本の近世文学は江戸中期の享保年間(1716年 - 1735年)を境目に大きく前後半に区分される。
江戸前期はそれまでの文化的中心地であった上方を中心とした文芸が栄え、江戸中後期には都市の発達に伴い江戸を中心に町人文化・出版文化が成立し、江戸を中心とする文芸が栄えた。
前期
お伽草子の流れを汲み仮名草子や井原西鶴らによる浮世草子がうまれた。
16世紀に入って急速に成長した浄瑠璃の世界では、人形を加えた人形浄瑠璃用に近松門左衛門が戯曲を書き人気を博した。
松永貞徳らにより栄えた俳諧は、後に松尾芭蕉が現れ表現として大成させた。
後期
後期には俳諧の与謝蕪村、小林一茶らが活躍した。
上田秋成の『雨月物語』や曲亭馬琴の『南総里見八犬伝』といった読本が書かれ、庶民向けの娯楽として赤本・青本などの草双紙が出版され、広く読まれた。
人形浄瑠璃に押されていた歌舞伎は、鶴屋南北や河竹黙阿弥等の戯曲を得て、人気の回復に成功した。
2、文学の周辺
形骸化した歌学を批判する形で、儒教の一派の古学の影響を受けて国学が現れた。
賀茂真淵、本居宣長らが活躍した。
滑稽話の元祖として安楽庵策伝の『醒睡笑』が著され、さらに江戸と上方で現在の落語の原形となる話芸が流行する。
三味線音楽など江戸期に特徴的な音曲が流行した。
葛飾北斎らにより浮世絵が描かれ、町人に愛玩された。
浮世絵は遠くフランスの印象派にも大きな影響を与えた。
3、近世文学の主な作品
好色物
∙1682年『好色一代男』井原西鶴/浮世草子
『好色一代男』(こうしょくいちだいおとこ)は、江戸時代前期の代表的な文芸作品。
井原西鶴の処女作である。
8巻8冊。
発刊は1682年(天和2年)、西鶴41歳の作品とされている。
∙1686年『好色五人女』井原西鶴/浮世草子
『好色五人女』(こうしょくごにんおんな)は、江戸時代の浮世草子。
井原西鶴作。
5巻5冊。
発刊は1686年(貞享3年)である。
5つの独立した物語で構成されており、すべて当時世間に知られていた実話に基づく。
各物語のタイトル(とモデルとなった事件)は次の通り。
書名は「好色」の2字を冠しているが、各話の女性が、現代的な語感で言う「好色」な人物であるわけではない。
巻5以外はすべて悲劇的な結末を迎える物語となっており、女性たちは、時には命をも賭けて一途な恋を貫いている。
と同時に、物語の語り口には滑稽味や露骨な描写なども多く見られ、現代のいわゆる純愛物の雰囲気とも趣を大きく異にしている。
∙1686年『好色一代女』井原西鶴/浮世草子
都に住む当世男が、友人とともに、西嵯峨に行き、草庵の主である老女に会って、生涯の思い出話を聞くという趣向である。
その内容は、堂上家の姫君に生まれた一代女がその道を踏み外して、悦楽と苦悩とのないまぜになった売春生活の末に次第次第に転落し、太夫から天神、私娼へと堕ちてゆく。
いくたびかその境遇から這い上がろうとして、しかしみずからの性質から、失敗するというもの。
∙1687年『男色大鑑』井原西鶴/浮世草子
1687年貞享4年正月刊行。
8巻8冊本で、各巻5章全40話の短編小説集。
好色には女色と男色があり、それまで女色の世界を書いてきた西鶴が、ほかの一面の好色、男色の世界を書こうと奮起した作品。
巻1から巻4では、巻1-1章をのぞき、武家15章、町人3章、僧侶1章で、主に武家における男色をあつかい、念者との愛のためには命をかけても愛を貫こうとする壮烈な精神美として、武家の男色を書いている。
巻5から巻8までの後半20章は全部町人の男色で、対象は歌舞伎若衆――ある意味、西鶴のよく知りぬいた世界だったりする。
よく知りぬいた世界だからこそ、「実録・若衆の実体」風暴露記事になってしまったらしい。
そのあたり、個人的には、なんだかなあ……。
そういう点では西鶴にとって不完全な失敗作ではあるが、当時の男色という風俗を総合的に描いていることに文芸的価値があり、フランス語訳・英語訳も出版されているすごい本だったりする。
∙1693年『西鶴置土産』井原西鶴/浮世草子
浮世草子。
井原西鶴作。
5巻5冊。
元禄6(1693)年刊。
西鶴没後,門人の北条団水が編。
好色生活のはてに落魄した大尽たちの末路を15話にわたって描くが,没落に付き物の暗さが少く,色道をきわめ尽した者の安堵感が漂っている。
本文は出典元の記述の一部を掲載しています。
武家物
∙1687年『
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