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02室町名词解释
『第9課―室町文化』の名詞解釈
順序
第九章―室町文化
名 詞 解 釈
1
室町時代
(むろまちじだい)
足利氏が政権を握り京都室町に幕府を開いた時代。
1392年(明徳3)南北朝の合一から、1573年(天正1)第15代将軍義昭が織田信長に追われるまでの約180年間を指す。
その後期すなわち応仁の乱後を戦国時代とも称する。
また、南北朝時代(1336~1392)を室町時代前期に含める説もある。
2
武士
(ぶし)
一般には武芸を習い、軍事にたずさわる者を広く指すが、武士を武技を職能として生活する職能民と捉える立場からは平安後期に登場し江戸時代まで存続した社会層をいう。
3
南北朝の争乱
(なんぼくちょうのそうらん)
朝廷が南朝(吉野)と北朝(京都)に分かれて対立し、約半世紀の間(1336~1392年)、くりひろげられた全国的な内乱。
1336年、建武の新政にそむいた足利尊氏が九州から東上して京都にはいり、持明院統の光明天皇をたてたので,大覚寺統の後醍醐天皇はひそかに吉野(奈良県)にのがれて南朝を開いた。
これに対して京都の朝廷を北朝といい,以後,南北朝の対立が始まった。
南朝は、わずかに吉野地方や九州・東国の一部に勢力をもつにすぎなかったが,足利氏の内わもめや荘園の混乱など、多くの社会的・政治的な変動が背景にあったため、対立は長びいた。
1392年に、吉野の後亀山天皇は将軍足利義満のすすめで京都に帰り、北朝の後小松天皇に譲位する形で南北朝の合一が行われ、南朝はほろんだ。
南北朝の動乱ともいう。
4
懐良親王
(かねよししんのう)
懐良親王(かねながしんのう元徳元年(1329年)?
-弘和3年/永徳3年3月27日(1383年4月30日))は、後醍醐天皇の皇子である。
母は二条為道の娘。
南北朝時代、南朝の征西大将軍であったことから征西将軍宮(せいせいしょうぐんのみや)と呼ばれる。
肥後国隈府(熊本県菊池市)を拠点に征西府の勢力を広げ、九州における南朝方の全盛期を築いた。
後醍醐天皇の皇子。
征西将軍に任ぜられ九州鎮撫に奮闘、その地で没する。
没年55~56歳と伝える。
(~1383)
5
足利義満
(あしかがよしみつ)
1358~1408 室町幕府3代将軍。
在職1368~94年。
足利義詮の子。
義詮の病死により10歳で足利将軍家をつぎ、翌年元服して正式に征夷大将軍となったが、1372年(文中元・応安5)までは義詮に後事を託された管領の細川頼之の補佐をうけた。
80年(天授6・康暦2)従一位、その後内大臣、左大臣、院別当となり、83年(弘和3・永徳3)に武家では初めて准三宮(じゅさんぐう)をあたえられた。
このころには南北朝の動乱もほぼ終息にむかい、義満は権力を集中して公武を統一する支配者となった。
(1358~1408)室町幕府の第3代将軍。
2代将軍義詮の子で、10歳で将軍職をついだ。
義満は、将軍の権力を確立するために有力な守護大名を討つ一方、1392年に南北朝を合一させて全国統一。
こうして幕府の全盛期がきずかれたが、この間,1378年に京都の室町に豪華な邸宅をつくり、幕府をここにうつしたので、室町幕府の名がついた。
1394年,将軍職を子の義持にゆずって太政大臣(公家社会の最高位)となったあとも,政治の実権はにぎっていた。
1397年には京都北山に広大な山荘をいとなみ、金閣をたてた。
この時代は義満の保護もあって、新しい文化(北山文化)が発達した。
義満は明(中国)が倭寇のとりしまりをもとめてきたのを機会に国交をむすび、1404年から貿易を行った。
室町時代、日本と明(中国)との間に行われた貿易。
日明貿易ともいう。
第3代将軍足利義満のとき,室町幕府の財政難を打開する目的と、明からの倭寇の禁圧の要求がもとになって開始、倭寇と区別するため勘合符を使用したので勘合貿易という。
一時中断したが16世紀半ばまでつづいた。
日本からは刀剣・扇・屏風(びょうぶ)などが輸出され、明からは銅銭・絹織物・書画などが輸入された。
6
『和漢三才図会』
(わかんさんさいずえ)
図入り百科事典。
一〇五巻。
寺島良安著。
1712年(正徳2)成立。
中国の「三才図会」にならって、和漢の万物を図を掲げ,漢文で解説を付す。
7
和敬清寂
(わけいせいじゃく)
茶道で重んじられる精神。
和敬は茶会において,主客がもっぱらとすべき精神,清寂は茶室・茶庭・茶器など全般に備わるべき精神をいう。
これはもともと禅の言葉であるが、茶道の祖といわれる村田珠光が、足利義政から茶の精神をたずねられたとき、「和敬静寂」と、答えたということで、この一句四文字の真意を体得し実践することが茶道の本分とされる。
和は、和合、調和、和楽の意
敬は、他を敬愛する心
清は、清潔、清廉の義
寂は、寂静、閑寂の意
8
『神皇正統記』
(じんのうしょうとうき)
歴史書。
六巻。
北畠親房著。
1339年成立。
1343年改訂して後村上天皇に献じた。
独特の神国論に基づいて,神代から当代に至るまでの天皇の事績,歴史の推移を述べ,南朝の正統性を論じる。
史論。
北畠親房著。
神代から後村上天皇までの歴史を記し、南朝の正統なる由を述べ、著者の国体論・継統論・神道論・政治論・武家論を各所に述べる。
1339年(延元4)常陸小田城で執筆、43年(興国4)関城で修訂。
9
大航海時代
(だいこうかいじだい)
15世紀から16世紀にかけ,スペイン・ポルトガルを主としたヨーロッパ勢力が,大規模な探検航海を行った時代。
〔背景〕イスラム教徒とたたかって建国したポルトガルとスペインは,海外発展に力をいれた。
それは,東方にあるはずの未知のキリスト教国と協力してイスラム教徒を攻めるためと,イタリア商人が独占していた東方貿易の富を得るためだった。
マルコ=ポーロがつたえた東洋の知識が,人々を動かし、イスラムからつたわった天体観測器や羅針盤のほか,火砲による武力が,航海と進出を可能にした。
〔インド洋への航路〕 ポルトガルでは15世紀初めから,ヘンリー(エンリケ)航海王子がアフリカ沿岸に探検隊を派遣,1488年バーソロミュー=ディアスが喜望峰まで,1498年にバスコ=ダ=ガマがインドまで到達。
ガマがもちかえった香辛料は、航海費用の60倍の利益をあげた。
〔大西洋を西へ〕 イタリアのコロンブスは地球球形説を信じ,西まわりでインドへ行くことを考え、スペイン女王の援助をうけて大西洋を横断、1492年アメリカの西インド諸島に達した。
スペイン王の命をうけたマゼランの艦隊は,1519年から1522年までかかって地球を1周した。
〔新航路の開拓の影響〕
(1)ヨーロッパ人は、アメリカ大陸の文明をほろぼしたほか,武力を背景にアフリカやアジア各地に商業根拠地をつくり、きそって植民地を広げていった。
(2)ヨーロッパの地中海沿岸にかわって、大西洋岸の諸国が繁栄にむかった。
(3)アメリカ大陸からの銀がものの値段をあげたため、封建貴族が没落し、商工業者が成長した。
10
鉄砲伝来
(てっぽうでんらい)
〔鉄砲伝来の影響〕
(1)戦法が一騎討ちから、
足軽鉄砲隊による集団戦
法へとかわった。
(2)城が山城から天守閣
をもつ平城にかわり,厚い
壁をめぐらす堅固なつく
りになった。
(3)鉄砲の使用で勝敗が早くきまり,全国統一も急
速に進むようになったと
いわれる。
九州の種子島(たねが)に漂着したポルトガル人が日本にはじめて鉄砲をつたえた。
〔ヨーロッパ人の来航〕1543年、ポルトガル人を乗せた中国船が種子島(鹿児島県)に流れついた。
日本に来た最初のヨーロッパ人であるこのポルトガル人は、鉄砲と火薬を持参していた。
領主の種子島時堯(ときたか)はその鉄砲2丁を買い取り、家臣に使用法と製造法を学ばせ、つくらせた。
以後、この鉄砲(火縄銃ひなわじゅう)は種子島とよばれる。
こうして鉄砲とその製法が日本に伝来し、堺(大阪府)をはじめ、近江(おうみ)(滋賀県),根来(ねごろ)(和歌山県)などで製造されるようになった。
おりから戦乱の時代であったので,鉄砲は戦国大名に注目され全国に広まっていった。
鉄砲を早くから利用したのは織田信長(おだのぶなが)。
信長の鉄砲隊が,武田軍をやぶった長篠(ながしの)の戦いは有名。
11
ザビエル
フランシスコ・ザビエル(FranciscodeXavierまたはFranciscodeGassuyJavier,1506年4月7日-1552年12月2日)は、カトリック教会の宣教師でイエズス会の創設メンバーの1人。
1549年に日本に初めてキリスト教を伝えたことで特に有名である。
また、日本だけでなくインドなどでも宣教を行い、聖パウロを超えるほど多くの人々をキリスト教信仰に導いたといわれている。
カトリック教会の聖人で、記念日は12月3日。
かつて日本のカトリック教会では慣用的に(イタリア語読みの)「ザベリオ」という呼び名を用いていた。
(1506~1552)日本にキリスト教をつたえたスペインの宣教師。
カトリック教を広めるため、1534年、ロヨラとともにイエズス会を創設。
東洋布教の責任者として、1542年にゴア(インド)にわたり、インド各地をはじめ、セイロン(今のスリランカ)・マラッカ・マルク(モルッカ)諸島に教えを広めた。
ついで、1549年に日本人アンジローの案内で鹿児島に上陸、日本にはじめてキリスト教をつたえた。
平戸・山口・府内(大分)などで伝道活動を進め、2年後インドにもどり、中国にもわたる計画を立てたが、広州近くの島で病死した。
12
キリスト教の伝来
(~きょうのでんらい)
1549年8月15日、イエズス会の宣教師・フランシスコ・ザビエルとその一行が鹿児島に上陸した。
イエズス会は、別名耶蘇会(やそかい)とも言い、1534年にイグナチウス・ロヨラを中心に設立されたカトリック教の修道会だ。
ザビエルは1542年~48年まで、ポルトガルのインド伝導責任者として、インド東西海岸、マラッカ、モルッカ諸島などで布教活動をしていんだけど、1547年にマラッカで日本人のヤジローという青年に出会う。
ヤジローから日本の国情を聞いたザビエルは、日本語を学び、日本での布教を決意したんだよ。
ザビエルの一行は、鹿児島領主・島津貴久(しまづたかひさ)から許可を得て布教活動に従事したんだけど、仏僧からの猛反発にあったために鹿児島には1年ほど滞在しただけで、平戸に移っている。
その後、博多、山口を経て、日本国内全域での布教活動の許可を求めるために京都に向かったんだけど、時の室町幕府将軍足利義輝(あしかがよしてる)は布教を許可しなかった。
このためザビエル達は方針転換を余儀なくされ、地方の有力大名に保護を求めるのが得策であるとし、まずは山口の大内義隆(おおうちよしたか)に接触して布教の許可を得て、続いて豊後の大友義鎮/大友宋麟(おおともよししげ/おおともそうりん)にも迎えられ、順調に信者を増やして行った。
ザビエルの後、コスモ・デ・トルレスやガスパル・ビレラなどの宣教師が来日し、1556年にはついに将軍・足利義輝も布教を許可することになった。
これによって全国的にキリスト教は広まり、中には大名自らが信者となるキリシタン大名もあらわれた。
すでに紹介した大友義鎮はもちろん、有馬晴信(ありまはるのぶ)、大村純忠(おおむらすみただ)、黒田孝高/黒田如水/黒田官兵衛(くろだよしたか/くろだじょすい/くろだかんべえ)、高山右近などが有名だな。
1579年、ローマ法王の命令でアレッサンドロ・ヴァリニャーニが来日した。
ヴァリニャーニは日本全国を都・豊後・下の3教区に分け、教育機関として有馬・安土にセミナリオ、府内にコレジオを設置した。
簡単に説明すると、セミナリオっていうのは、中学・高校で、コレジオは大学に相当し、宗教教育がメインの学校だ。
13
南蛮文化
(なんばんぶんか)
16~17世紀ごろ,キリスト教の伝来とともにヨーロッパからつたえられた文化。
〔ヨーロッパ伝来の文化〕室町時代の末から江戸時代の初めにかけてさかえた文化で,キリシタン文化ともよばれる。
カトリックのイエズス会によるキリスト教の色彩が強く、それまでの日本の文化とはまったく異質のため、宗教・学問・技術・美術・風俗などあらゆるものが関心をもたれ、受け入れられた。
しかし、キリスト教の禁教以後は、あとを絶たれ、異国趣味としてのこるにすぎない。
〔文化の内容〕多くの宣教師が来日して宗教文学や宗教画をつたえ、各地に教会や宣教師養成の学校、養老院、病院などをたてた。
天文学・医学・地理学などがつたわり、地球儀・世界地図・太陽暦・望遠鏡・時計、航海術や造船技術ももたらされた。
活字印刷がつたわって、ローマ字で『伊曽保(イソップ)物語』や『平家物語』が印刷され、キリシタン版とよばれた。
◇当時つたえられたポルトガル語やスペイン語の中には日本語化したものも多い。
14
織田信長
(おだのぶなが)
織田信長は、戦国時代から安土桃山時代の武将・大名。
延暦寺焼き討ちなどの苛烈な政策から人々に恐れられ、自ら神、魔王(第六天魔王)と称する。
指導力を失いつつあった既存の権威や勢力(朝廷・仏教など)を軽蔑・否定し、常識に縛られず、大胆な方針・政策を果敢に実行した。
家柄門地によらない人材登用を行なったほか、新兵器であった火縄銃の活用にも積極的だった。
またそれまで日本ではほとんど知られていなかった西洋の文化に強い関心を示し、キリスト教を保護し、さらに当時は天動説が常識とされていた中にあって地動説を肯定した。
こうした大胆さもあって急速に戦国時代を終結へと導き、天下統一を目前としたが、天正10年(1582年)6月2日、家臣・明智光秀の謀反により京都・本能寺において自害した(本能寺の変)。
(1534~1582)戦国~安土桃山時代の武将。
全国統一のさきがけをなした。
〔全国統一に着手〕 尾張国(おわり)(愛知県)の守護代の家老(かろう)織田信秀の子。
父の死によって家をつぎ、やがて尾張一国を統一。
1560年、桶狭間(おけはさま)の戦いに勝って勢力を強め、美濃国(みの)(岐阜県)を平定後、1568年には京に上って足利義昭(あしかがよしあき)を名ばかりの将軍にし、自治都市堺(大阪府)を屈伏させるなど、たちまち近国を征服した。
このあと、敵対する浅井・朝倉の連合軍を姉川(あねがわ)の戦いでやぶり(1570年),翌年、これにくみした延暦寺(えんりゃくじ)を焼き打ちし、1573年には将軍義昭を追放して室町幕府をほろぼした。
15
宣教師
(せんきょうし)
カトリック教会の宣教師:
大航海時代に入って航海技術が発達し、ヨーロッパ人がそれまで行くことができなかった地域に足を伸ばすようになると、多くのカトリック宣教師がアメリカやアジアへ向かった。
特に南北アメリカで行われた宣教活動はカトリック教会の歴史の中でも、最も大規模かつ有名な宣教事業となった。
カトリック教会の宣教師たちはみな修道会に属し、修道会の命を受けて派遣された。
一種の多国籍企業とも言える修道会は国家の制限を超えて活躍することができたため、アメリカにおける初期の宣教事業は国家による制約を受けずに遂行された。
しかしスペインやポルトガルといった国々がアメリカにおける植民地体制を堅固なものとして構築していくと、その制約を受けない修道会の宣教事業の存在が邪魔となり、対立を繰り返しながら制限を加えるようになっていった。
15世紀以降、世界各地に盛んに宣教師を派遣した修道会としてはフランシスコ会、ドミニコ会があり、16世紀に入ると新しく生まれたイエズス会が際立った働きを見せるようになった。
イエズス会員たちが中国やインド、アジアの宣教において実践した「適応政策」は、ヨーロッパのスタイルを押し付けるのではなく、当地の文化に自分たちを合わせるという当時のヨーロッパ人にとっては想像もできないほど画期的な方法論であり、大きな成功を収めたが、やがて貿易事業に利権を持つ各国政府の介入やイエズス会の急進を危険視したカトリック教会内での対抗勢力との争いがおこったために頓挫することになった。
19世紀後半になると再び宣教熱が高まり、従来の修道会に加えてサレジオ会などの新修道会も盛んに宣教師を派遣するようになった。
日本へは1549年,イエズス会の宣教師ザビエルがつたえた。
その教えはキリシタンとよばれ、しだいに信者をふやしたが、豊臣秀吉(とよとみひでよし)や江戸幕府が支配のさまたげになるとして弾圧し,江戸時代には表面的には見られなくなった。
約260年後の1873(明治6)年,欧米諸国の要求のもとでキリスト教が解禁となり,自由な伝道がゆるされた。
16
朱印船貿易
(しゅいんせんぼうえき)
朱印船は、16世紀末から17世紀初頭にかけて日本の支配者の朱印状(海外渡航許可証)を得て海外交易を行った船を言う。
朱印状を携帯する日本船は当時日本と外交関係があったポルトガル、オランダ船や東南アジア諸国の支配者の保護を受けることができた。
南北朝時代や戦国時代には九州・瀬戸内海方面の武士や海賊が中国、朝鮮沿岸を荒らしまわり、倭寇と恐れられた。
16世紀後半になるとポルトガル船が日本に来航するようになって海外への関心が高まり、東南アジア方面にまで進出する日本人も現れた。
天下統一を達成した豊臣秀吉は日本人の海外交易を統制し、倭寇を禁圧する必要から、1592年に初めて朱印状を発行してマニラ、アユタヤ、パタニになどに派遣したとされるが、この時のことはあまり史料がない。
朱印状という渡航許可証をもつ船が,東南アジアで行った貿易。
朱印船貿易は豊臣秀吉のとき本格的に始まり、徳川家康のころ最盛期をむかえて鎖国までつづいた。
朱印船を送った船主は、島津・鍋島などの九州の大名や、大阪の末吉(すえよし)、京都の角倉(すみのくら)のほか、堺・博多(はかた)・長崎などの大商人が多かった。
朱印船はシャム・ルソンなど東南アジア各地に派遣され、銀・銅・刀剣・硫黄・しょうのうなどを輸出し、生糸・絹織物・綿布・スズ・皮革などを輸入した。
◇朱印船貿易が発展すると,商人・浪人・キリシタンなどで東南アジアに移住する者がふえ、各地に日本町が生まれ、その多くは自治制がとられた。
17
一向一揆
(いっこういっき)
一向一揆は、戦国時代に浄土真宗(一向宗[1])の信徒たちがおこした一揆の総称。
争乱の排除をめざして浄土真宗本願寺教団によって組織された武士、農民、商工業者などによって形成された宗教的自治である。
1488年、加賀国守護富樫政親を滅ぼすことでその勢力を世に知らしめる。
戦国時代末期、織田信長などによって平定されるまでは各地に安定した豊かな町が築かれた。
本拠地とされた摂津大坂や伊勢長島、三河矢作川流域などは湿地帯であったことから、高度な治水技術があったのではないかとの見方もされている。
朝倉氏に奪われた越前吉崎を取り戻すため何十回となく大規模な戦を起こしたり(九頭竜川の戦い)、一揆の拡大によって武家政権の基盤を脅かされることを恐れた織田信長や細川晴元ら権力者との争いを展開するなど戦国大名化して覇権を争ってもいる。
しかし、1580年織田信長との抗争に敗れて本願寺顕如が大坂を退去した後は本願寺の分裂騒動もあって一向一揆という名称は見られなくなる。
戦国時代に一向宗(浄土真宗)の信徒たちがおこした一揆。
畿内・北陸・東海地方などでさかんにおこされたが、なかでも1488年の加賀(石川県)の一向一揆では、守護大名の富樫氏をほろぼし、約100年間、信徒たちが同国を支配した。
一向一揆は、村としてのまとまりの上に、講・組などの教団組織がくわわったため、団結が強かった。
わかき日の徳川家康も三河(愛知県)の一向一揆に苦しめられている。
畿内・北陸・東海地方などでさかんにおこされたが、なかでも1488年の加賀(石川県)の一向一揆では、守護大名の富樫氏をほろぼし、約100年間、信徒たちが同国を支配した。
一向一揆は、村としてのまとまりの上に、講・組などの教団組織がくわわったため、団結が強かった。
わかき日の徳川家康も三河(愛知県)の一向一揆に苦しめられている。
18
延暦寺
(えんりゃくじ)
延暦寺は、滋賀県大津市坂本本町にあり、標高848mの比叡山全域を境内とする寺院。
延暦寺の名より比叡山、また叡山(えいざん)と呼ばれることが多い。
平安京(京都)の北にあったので北嶺(ほくれい)とも称された。
平安時代初期の僧侶最澄(767年-822年)により開かれた日本天台宗の本山寺院である。
住職(貫主)は天台座主(てんだいざす)と呼ばれ、末寺を統括する。
滋賀県大津市にある天台宗の総本山。
京都の北東の比叡山上にあり、788年に最澄がたてた比叡山寺が起源。
最澄が唐(中国)から帰国して天台宗をつたえた。
最澄の死後、823年に朝廷から延暦寺という寺号を受ける。
円仁・円珍の時代に発展したが、993年、派閥争いのため、山門(延暦寺派)と寺門(園城寺派)に分かれた。
しかし、広い荘園と多くの僧兵をもち、政治的にも大きな力があった。
のち織田信長に焼き打ちされ、豊臣秀吉が再建した。
19
本願寺
(ほんがんじ)
本願寺は仏教寺院の名称。
各地に同名の寺院があるが、一般には浄土真宗(真宗)の本山の一つである本願寺を指すことが多い。
親鸞(1173-1263)を宗祖とする本願寺は、1272年(文永9年)、親鸞を祀って京都東山に建立された大谷廟堂を起源とする。
その後各地に移転を繰り返し、1591年(天正19年)、再び京都に寺地を得るが、1602年(慶長7年)、東・西の2寺に分裂した。
西本願寺-京都市下京区堀川通り花屋町下る本願寺門前町にある浄土真宗本願寺派の本山。
正式の寺号は本願寺。
東本願寺-京都市下京区烏丸通り七条上る常葉町にある真宗大谷派の本山。
正式名称は真宗本廟(1987年までは「本願寺」が正式名称であった)。
東本願寺(東京都台東区)-東京都台東区西浅草一丁目にある浄土真宗東本願寺派の本山。
正式名称は浄土真宗東本願寺派本山東本願寺。
お東騒動の影響によって真宗大谷派から離脱・独立した。
京都市にある浄土真宗(一向宗)の総本山。
1272年に親鸞のむすめ覚信尼が京都大谷の地に御影堂をたて,父の遺骨をまつったのが始まり。
1465年に、比叡山の宗徒に焼かれたが、8世蓮如が山科に再建した。
その後、ふたたび法華宗徒におそわれ,10世証如が大阪石山に復興。
豊臣秀吉と尾t区側家康がそれぞれ土地を寄進し,京都に西本願寺と東本願寺がたてられた。
20
キリシタン禁教令
(~きんきょうれい)
1587年、豊臣秀吉が出したキリスト教禁止令。
バテレン追放令ともいう。
江戸幕府も1612年に直轄領、ついで翌年には全国に禁教令を発布し、キリスト教の禁止と信者の弾圧を強化した。
21
豊臣秀吉
(とよとみひでよし)
豊臣秀吉/羽柴秀吉(はしばひでよし)は、戦国時代(室町時代後期)から安土桃山時代にかけての武将・戦国大名。
最後の大敵・後北条氏を下し、ついに天下を統一する。
秀吉は長きに渡って続いた戦国の世を終わらせたのである。
しかし、臣従させた伊達氏のように、軍事的な殲滅の対象とならなかった諸大名が残っていたことにより、諸大名は軍事力を温存することができていた。
この有力諸大名の処遇が秀吉の政権の課題となる。
天正19年(1591年)には関白を甥・秀次に譲り、太閤(前関白の尊称)と呼ばれるようになる(全権は譲ってないので秀次に家督は譲ってないと思われる)。
また、秀吉に仕えていた茶人千利休に自害を命じている。
利休の弟子の古田織部、細川忠興らの助命嘆願も空しく、利
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